2011年07月09日
ギレルモ・ビラスwikiを見て
Wikipediaのギレルモ・ビラスに関する記載がいまいちなので、自分の日記に加筆、修正しました。
以下ギレルモ・ビラス(Guillermo Vilas)について
ギジェルモ・ビラス(Guillermo Vilas, 1952年8月17日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大の最高のスターでありテニス選手として、4大大会通算「4勝」を挙げた名選手である。身長180cm、体重75kg、左利きの選手。彼はジミー・コナーズと同じ年であり、ビョルン・ボルグやジョン・マッケンローなどもとも同世代のライバル選手として1977年~1979年の間、BVC時代(B=Borg、C=Connors、V=Vilas)と呼ばれる一時代を築いた。ビラスは彼らと並んで、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を刻んだ選手のひとりに数えられる。長髪をバンダナで束ねた風貌でも強い印象を持ち、「パンパスの若き雄牛」(Young Bull of the Pampas)というニックネームで呼ばれた。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス62勝、ダブルス15勝を挙げた。トップスピン打法の元祖としてビヨン・ボルグと並んで評されている。
1970年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアルゼンチン代表選手となる。1973年に地元ブエノスアイレスのトーナメントでツアー初優勝。1975年の全仏オープンで4大大会の男子シングルス決勝に初進出を果たしたが、当時19歳のビョルン・ボルグに 2-6, 3-6, 4-6 のストレートで敗れて準優勝になる。1977年からはビラスのキャリアが最盛期に入りであり、出場33大会のうち「17大会」に優勝した。この年は全豪オープンが「1月開催」と「12月開催」の2回行われたが、ビラスは年頭の1月開催の大会でロスコー・タナーに敗れて準優勝になっている。その後、全仏オープンと全米オープンで4大大会年間2冠を獲得し、全仏では2年ぶり2度目の決勝進出で初優勝を飾る。する。1977年の最終ATPコンピュータランキング1位はジミーコナーズであるが、この年最も輝かしい実績をあげた事実上のNO.1はビラスである。それから1978年全仏オープンで2年連続3度目の決勝に進出したが、ボルグに 1-6, 1-6, 3-6 のストレートで敗れ、全仏2連覇はならなかった。同じくこの年クレーコート53連勝というATP新記録を打ち立て、スパゲッティ・ラケットを使ったイリー・ナスターゼに連勝を止められている。ウィンブルドンチャンピオン、パットキャッシュは、違反ラケットとなるスパゲッティ・ラケットをナスターゼが使わなければ、ビラスの連勝記録はもっと続いていただろうと語っている。それほどクレーコートにおけるビラスの強さは傑出していた。
ビラスは全豪オープンで、1978年と1979年に大会2連覇を達成した。全豪オープンは1977年に2度の開催があった後、1978年-1985年までは12月の年末開催だった。したがって、ビラスの全豪初優勝は2度目の全仏準優勝の半年後のことである。(全豪オープンの開催時期に度重なる変更が加えられたため、年頭の1月に開催される現在の感覚とは違う点が注意を要する。)ビラスは1974年から9年連続で世界ランキングトップ10位を守り、1977年に自己最高の2位まで到達したが、ボルグやコナーズの厚い壁に阻まれ、南米の男子選手として世界ランキング1位になることはできなかった。した。
あまり知られていないことだが、ビラスはコナーズ、マッケンローとの対戦成績はほぼ五分五分であるが、ボルグに対しては2勝15敗と大きく負け越している。往年の名選手は、ボルグとビラスを比較すると、全てにおいてボルグのほうがビラスを少しづつ上回っていたと語っている。一方で当時ニック・ボロテリーはビラスの打法は完璧だと賞賛し、また前述のキャッシュは現在のラテン系ストローカーはビラスが手本になっていると語っている。
1982年に全仏オープンで4年ぶり4度目の決勝戦に進出した時、今度の相手はスウェーデンの新星マッツ・ビランデルであった。この時ビランデルは17歳7ヶ月の若さで、全仏オープンは初出場だった。12歳年下のビランデルとの決勝戦は4時間を超える長い試合になったが、ビラスはビランデルに 6-1, 6-7, 0-6, 4-6 で敗れ、3度目の準優勝に終わった。全仏決勝でのビラスの成績は「1勝3敗」で、3度の準優勝はすべてスウェーデン勢に敗れたことになる。
ビラスは1989年まで現役を続行したが、この年の全仏オープン1回戦でイタリアのクラウディオ・ピストレッシ(後にアンナ・スマシュノワと結婚した人)に敗れたのが最後の試合になった。1991年にアルゼンチンのテニス選手として、史上初の国際テニス殿堂入りを果たした。
2004年の全仏オープン男子シングルス準優勝者、ギレルモ・コリアは「ビラスにあやかって」命名された人として知られる。
ビラスはクレーコート(赤土)で「53連勝」のATPツアー記録を保持していたが、2006年5月にスペインのラファエル・ナダルがビラスの連勝記録を更新した。
以下ギレルモ・ビラス(Guillermo Vilas)について
ギジェルモ・ビラス(Guillermo Vilas, 1952年8月17日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大の最高のスターでありテニス選手として、4大大会通算「4勝」を挙げた名選手である。身長180cm、体重75kg、左利きの選手。彼はジミー・コナーズと同じ年であり、ビョルン・ボルグやジョン・マッケンローなどもとも同世代のライバル選手として1977年~1979年の間、BVC時代(B=Borg、C=Connors、V=Vilas)と呼ばれる一時代を築いた。ビラスは彼らと並んで、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を刻んだ選手のひとりに数えられる。長髪をバンダナで束ねた風貌でも強い印象を持ち、「パンパスの若き雄牛」(Young Bull of the Pampas)というニックネームで呼ばれた。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス62勝、ダブルス15勝を挙げた。トップスピン打法の元祖としてビヨン・ボルグと並んで評されている。
1970年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアルゼンチン代表選手となる。1973年に地元ブエノスアイレスのトーナメントでツアー初優勝。1975年の全仏オープンで4大大会の男子シングルス決勝に初進出を果たしたが、当時19歳のビョルン・ボルグに 2-6, 3-6, 4-6 のストレートで敗れて準優勝になる。1977年からはビラスのキャリアが最盛期に入りであり、出場33大会のうち「17大会」に優勝した。この年は全豪オープンが「1月開催」と「12月開催」の2回行われたが、ビラスは年頭の1月開催の大会でロスコー・タナーに敗れて準優勝になっている。その後、全仏オープンと全米オープンで4大大会年間2冠を獲得し、全仏では2年ぶり2度目の決勝進出で初優勝を飾る。する。1977年の最終ATPコンピュータランキング1位はジミーコナーズであるが、この年最も輝かしい実績をあげた事実上のNO.1はビラスである。それから1978年全仏オープンで2年連続3度目の決勝に進出したが、ボルグに 1-6, 1-6, 3-6 のストレートで敗れ、全仏2連覇はならなかった。同じくこの年クレーコート53連勝というATP新記録を打ち立て、スパゲッティ・ラケットを使ったイリー・ナスターゼに連勝を止められている。ウィンブルドンチャンピオン、パットキャッシュは、違反ラケットとなるスパゲッティ・ラケットをナスターゼが使わなければ、ビラスの連勝記録はもっと続いていただろうと語っている。それほどクレーコートにおけるビラスの強さは傑出していた。
ビラスは全豪オープンで、1978年と1979年に大会2連覇を達成した。全豪オープンは1977年に2度の開催があった後、1978年-1985年までは12月の年末開催だった。したがって、ビラスの全豪初優勝は2度目の全仏準優勝の半年後のことである。(全豪オープンの開催時期に度重なる変更が加えられたため、年頭の1月に開催される現在の感覚とは違う点が注意を要する。)ビラスは1974年から9年連続で世界ランキングトップ10位を守り、1977年に自己最高の2位まで到達したが、ボルグやコナーズの厚い壁に阻まれ、南米の男子選手として世界ランキング1位になることはできなかった。した。
あまり知られていないことだが、ビラスはコナーズ、マッケンローとの対戦成績はほぼ五分五分であるが、ボルグに対しては2勝15敗と大きく負け越している。往年の名選手は、ボルグとビラスを比較すると、全てにおいてボルグのほうがビラスを少しづつ上回っていたと語っている。一方で当時ニック・ボロテリーはビラスの打法は完璧だと賞賛し、また前述のキャッシュは現在のラテン系ストローカーはビラスが手本になっていると語っている。
1982年に全仏オープンで4年ぶり4度目の決勝戦に進出した時、今度の相手はスウェーデンの新星マッツ・ビランデルであった。この時ビランデルは17歳7ヶ月の若さで、全仏オープンは初出場だった。12歳年下のビランデルとの決勝戦は4時間を超える長い試合になったが、ビラスはビランデルに 6-1, 6-7, 0-6, 4-6 で敗れ、3度目の準優勝に終わった。全仏決勝でのビラスの成績は「1勝3敗」で、3度の準優勝はすべてスウェーデン勢に敗れたことになる。
ビラスは1989年まで現役を続行したが、この年の全仏オープン1回戦でイタリアのクラウディオ・ピストレッシ(後にアンナ・スマシュノワと結婚した人)に敗れたのが最後の試合になった。1991年にアルゼンチンのテニス選手として、史上初の国際テニス殿堂入りを果たした。
2004年の全仏オープン男子シングルス準優勝者、ギレルモ・コリアは「ビラスにあやかって」命名された人として知られる。
ビラスはクレーコート(赤土)で「53連勝」のATPツアー記録を保持していたが、2006年5月にスペインのラファエル・ナダルがビラスの連勝記録を更新した。
2009年04月14日
モンテカルロ1982年
今から27年前、1982年のモンテカルロオープン。
ピークを過ぎた29歳のビラスが優勝しました。
若いNO.1ハードヒッターのレンドルとの決勝、赤土でのストローク戦はビラスのトップスピンが打ち勝ちました。
とても嬉しかったことを憶えています。
この年のビラスは復調し、ランキングが一時2位まで上がるなど好成績を残した年でした。
そしてこの時期、モナコの王女とビラスの間でロマンスがありました。
ピークを過ぎた29歳のビラスが優勝しました。
若いNO.1ハードヒッターのレンドルとの決勝、赤土でのストローク戦はビラスのトップスピンが打ち勝ちました。
とても嬉しかったことを憶えています。
この年のビラスは復調し、ランキングが一時2位まで上がるなど好成績を残した年でした。
そしてこの時期、モナコの王女とビラスの間でロマンスがありました。
2008年09月10日
ビラス 一番カッコイイ男
久々の私だけ?が満足な日記。
ギレルモ・ビラス GUILLERMO VILAS のお話。
ビラスは、当時ほとんど存在しない、体の回転に伴い、フルスイングで腕を完全に振り切る、現代テニスの元祖ともいうべき偉大な選手です。
そして、とてもイケメンで、鍛えられた肉体、詩を愛するという側面を持つ知性的な選手で、その知性は、昔の雑誌のインタビューからも伺うことができます。
私がテニスを始めたころ、雑誌、テレビで見る限り、ビラスほどカッコイイ選手は存在しませんでした。
バックハンドトップスピンを打つ構えをとった姿勢と鋭い視線、そしてハンサム、とても痺れました。
海外の女性には相当人気があったようですが、なぜか日本では注目されないという不思議な状況でした。モナコの王女様とのロマンスもありました。
今の選手に例えれば、ナダルをかなりイケメンにした感じ。
以下のサイトにパット・キャッシュのコメントがあり、
http://gorimaru.blog58.fc2.com/blog-entry-254.html
とても適切な解説をしています。
YouTubeでもGUILLERMO VILASで検索すれば、ボルグ、コナーズと戦う映像が出てきます。是非ご覧下さい。
そしていまだに強さ、その時代の先進性、知性、外観、人間性を兼ね備えたカッコイイ選手を見つけられないのです。
最近の選手をもっとよく知って、見つけたいな。
(一人いた!エドバーグ!)
ギレルモ・ビラス GUILLERMO VILAS のお話。
ビラスは、当時ほとんど存在しない、体の回転に伴い、フルスイングで腕を完全に振り切る、現代テニスの元祖ともいうべき偉大な選手です。
そして、とてもイケメンで、鍛えられた肉体、詩を愛するという側面を持つ知性的な選手で、その知性は、昔の雑誌のインタビューからも伺うことができます。
私がテニスを始めたころ、雑誌、テレビで見る限り、ビラスほどカッコイイ選手は存在しませんでした。
バックハンドトップスピンを打つ構えをとった姿勢と鋭い視線、そしてハンサム、とても痺れました。
海外の女性には相当人気があったようですが、なぜか日本では注目されないという不思議な状況でした。モナコの王女様とのロマンスもありました。
今の選手に例えれば、ナダルをかなりイケメンにした感じ。
以下のサイトにパット・キャッシュのコメントがあり、
http://gorimaru.blog58.fc2.com/blog-entry-254.html
とても適切な解説をしています。
YouTubeでもGUILLERMO VILASで検索すれば、ボルグ、コナーズと戦う映像が出てきます。是非ご覧下さい。
そしていまだに強さ、その時代の先進性、知性、外観、人間性を兼ね備えたカッコイイ選手を見つけられないのです。
最近の選手をもっとよく知って、見つけたいな。
(一人いた!エドバーグ!)
2008年06月28日
新スター誕生・・・でも時代は1974年のこと
昔の雑誌の多くを捨ててしまって後悔していたモモビラスですが、「145歳ペアにコテンパンにされ」で登場している舅が、さらに昔の雑誌を保管していたことから、その一部を借りてきました。
いきなり自分の好みの記事から。
スマッシュ1975年3月号
“その他多勢から世界一”になった男
一躍スターにのし上がったビラスの秘密をえぐる
1974年12月、オーストラリア メルボルンのクーヨンスタジアム、その年のグランプリポイント上位8人で世界一を決める大会、マスターズトーナメントが開催され、ビラスがナスターゼ、ボルグらを破って優勝し、世界的選手に認知された大会の記事です。
この記事の中のビラスのコメント
相性の悪いラミレスとの対戦前、賭け率ラミレス10対1で優勢と聞かされ、記者会見で、
「私にもチャンスがあるのですか」と笑顔で答えたようです。
また、マスターズ優勝後のコメントで次の目標を
「コナーズに勝つことだ(この大会はクリスエバートとの婚約解消後でなのか不参加)。彼とはまだ一度も試合をしていないが、多分、私より実力が上だと思う。彼は私がまだ一度も取ったことのない四大トーナメントのタイトルをいくつも保持している。75年は、彼に勝ってウィンブルドンに優勝したい。」
と答えています。
コナーズを破ってウィンブルドンに優勝する夢はとうとう実現しませんでしたが、1977年USオープンではコナーズを破り優勝しています。
1974年は、私がテニスに興味を持ち、ビラスが好きになった時よりもだいぶ前です。そのビラスが頭角を現した時期の記事に接することができ、感激しています。
これからしばらく“昔テニス研究”をしようと思っています。
いきなり自分の好みの記事から。
スマッシュ1975年3月号
“その他多勢から世界一”になった男
一躍スターにのし上がったビラスの秘密をえぐる
1974年12月、オーストラリア メルボルンのクーヨンスタジアム、その年のグランプリポイント上位8人で世界一を決める大会、マスターズトーナメントが開催され、ビラスがナスターゼ、ボルグらを破って優勝し、世界的選手に認知された大会の記事です。
この記事の中のビラスのコメント
相性の悪いラミレスとの対戦前、賭け率ラミレス10対1で優勢と聞かされ、記者会見で、
「私にもチャンスがあるのですか」と笑顔で答えたようです。
また、マスターズ優勝後のコメントで次の目標を
「コナーズに勝つことだ(この大会はクリスエバートとの婚約解消後でなのか不参加)。彼とはまだ一度も試合をしていないが、多分、私より実力が上だと思う。彼は私がまだ一度も取ったことのない四大トーナメントのタイトルをいくつも保持している。75年は、彼に勝ってウィンブルドンに優勝したい。」
と答えています。
コナーズを破ってウィンブルドンに優勝する夢はとうとう実現しませんでしたが、1977年USオープンではコナーズを破り優勝しています。
1974年は、私がテニスに興味を持ち、ビラスが好きになった時よりもだいぶ前です。そのビラスが頭角を現した時期の記事に接することができ、感激しています。
これからしばらく“昔テニス研究”をしようと思っています。
2008年06月25日
あのお姿は?あの日感動の有明
今から10年ほど前の話
千代田区民大会のダブルスにサークル仲間達と複数ペアでエントリーしました。
モモビラス含め数ペアの試合会場が有明テニスの森でした。
試合当日、クラブハウス内で仲間と待ち合わせ、会場となるコートへ移動し始めたとき、
クラブハウス前のコートに、見覚えのあるフォームでボールを打つ、上手い長髪の外人がいます。
もしや!と思いスタンドのあるコートサイドに近づいてみると、
あのお方・・・ギレルモ・ビラス・・・ではありませんか。
興奮と感動でその練習を見つめていますと、
モモビラスがギレルモ・ビラスのファンであることを知っている友人が、
(彼はレンドルのファンで、体格もレンドル並みでした)
「ヘイ!ビラース!って声掛けなよ、ワイパースイングしながら」
となんと素晴らしくかつ無茶な提案をしてくれたのですが、
物怖じするモモビラスは、竹内まりやさんの「駅」のように、
「ひとつ隣の車両に乗り うつむく横顔 見ていたら 思わず涙 あふれてきそう」
とたたずんで見ていたのでした。
現役時代のビラスはあまり日本の大会に出場することはなく、
テレビではない本物をみたのは初めてでした。
確か一緒に練習をしていた一人は米沢徹選手で、白髪のボルグも見かけました。
意外だったのは、ビラスがフラットなボールを打っていたことです。
「えーっ、それってあり?」
たぶん「NTTデータチャンピオン??」という往年の選手の大会があったころです。
ところで自分のダブルスはどうなったかというと、
何せ偽ビラスですから・・・
千代田区民大会のダブルスにサークル仲間達と複数ペアでエントリーしました。
モモビラス含め数ペアの試合会場が有明テニスの森でした。
試合当日、クラブハウス内で仲間と待ち合わせ、会場となるコートへ移動し始めたとき、
クラブハウス前のコートに、見覚えのあるフォームでボールを打つ、上手い長髪の外人がいます。
もしや!と思いスタンドのあるコートサイドに近づいてみると、
あのお方・・・ギレルモ・ビラス・・・ではありませんか。
興奮と感動でその練習を見つめていますと、
モモビラスがギレルモ・ビラスのファンであることを知っている友人が、
(彼はレンドルのファンで、体格もレンドル並みでした)
「ヘイ!ビラース!って声掛けなよ、ワイパースイングしながら」
となんと素晴らしくかつ無茶な提案をしてくれたのですが、
物怖じするモモビラスは、竹内まりやさんの「駅」のように、
「ひとつ隣の車両に乗り うつむく横顔 見ていたら 思わず涙 あふれてきそう」
とたたずんで見ていたのでした。
現役時代のビラスはあまり日本の大会に出場することはなく、
テレビではない本物をみたのは初めてでした。
確か一緒に練習をしていた一人は米沢徹選手で、白髪のボルグも見かけました。
意外だったのは、ビラスがフラットなボールを打っていたことです。
「えーっ、それってあり?」
たぶん「NTTデータチャンピオン??」という往年の選手の大会があったころです。
ところで自分のダブルスはどうなったかというと、
何せ偽ビラスですから・・・