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テニス浦島太郎 8年ぶりにテニスをまたはじめた40代のおじさんです。最近のテニスの変貌ぶりに驚きつつも、いかに上達できるか、日記にしています。

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才能と作戦の融合3

*参考:テニスジャーナル1996年7月号

初日シングルス
伊達VSフーバー
日本チームの坂井監督らは、第1試合で伊達VSグラフにならなくて幸運だと思ったようです。伊達の勝ち。
沢松VSグラフ
グラフの一方的な試合。
初日1勝1敗という滑り出し。
日本は伊達が負けたら終わり、と土俵際の攻防でした。

翌日の伊達VSグラフについて、日本チームは綿密な作戦を立てています。。
伊達選手は前日に足を痛めてしまっているため、左足をテープでグルグル巻きにしたらしい。

伊達VSグラフ戦
グラフVS伊達戦で必ず勝つことが求められていました。
日本チーム(坂井監督、丸山純、丸山薫ら)は仮説を立てています。
その仮説に基づいた作戦を行い、3勝2敗でドイツに勝ちました。

坂井監督の対グラフ戦術
①ゲームを先行させないこと
②フォアに回り込ませないこと
③セカンドサーブを叩かれないようにすること

【試合】
グラフサーブ ゲームカウント0-5 リード0-40と最初から追い込まれました。
ここから、伊達選手は挽回し、7-6(9-7)で第一セットをとります。
第2セットはグラフの6-4となりファイナルセット。
ファイナルセット、5-6で30-40とグラフのマッチポイント。
ダブルフォールトするのではないかというシーンでいいサーブが入りました。
スタンドでは松岡修造さんが旗を振って応援しています
伊達選手の足は限界にきており、そしてグラフの足も止まってきました。
ファイナル12-10 で伊達選手の勝利となった。

この試合、伊達選手は、フォアハンドストロークの出来が良かった記憶があります。
当時グラフのフォアを凌ぐのは困難でした。
クロスの打ち合いで対等な伊達選手は、バックハンドのライジングショットなどグラフにない武器がありました。

日本チームは坂井監督やコーチの緻密な作戦とそれを実現できる伊達選手というプレイヤーによる総合力で大金星をあげたのです。

フェドカップ





印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 14:33 | コメント(0)| トラックバック(0)

才能と作戦の融合2

1996年 フェドカップ ワールドグループ1回戦で、強敵ドイツを破った忘れられない年です。

*参考:テニスジャーナル1996年7月号

この大会はNO.1、NO2シングルスとタブルスで競われました。
シングルス4試合、ダブルス1試合
そのため、大黒柱といえる選手は、シングルス2試合、ダブルスを戦う厳しい戦いです。

対戦相手のドイツは
世界1位グラフ、5位フーバー
この2枚看板でアウェーの日本に乗り込んできました。
日本チーム
伊達公子、沢松奈生子、杉山愛、長塚京子
監督 坂井利郎

会場は有明コロシアムで開催
連日息詰まる熱戦が繰り広げられました。

3日の期間で勝敗を決するため選手には過酷になりがち。
初日 フーバーvs伊達、グラフVS沢松
1位グラフ 5位フーバー 
伊達8位 杉山愛25位 沢松32位 長塚77位

状況としては、女王グラフでシングルス2勝、フーバーが1つ勝てば決着がつくという中で、日本チームはドイツ攻略法を考えていました。





印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 21:22 | コメント(2)| トラックバック(0)

才能と作戦の融合

*参考:テニスジャーナル 1996年7月号

伊達公子選手を中心にしたフェドカップ、ワールドグループ1回戦、日本対ドイツが1996年4月に行われました。
グラフを破る伊達選手、同じく激戦を戦った沢松奈生子選手、ダブルスの杉山/長塚ペア、それぞれに難しい対戦でありながら、チームを勝利に導いた歴史的一戦です。

この試合については、テニスジャーナル誌が舞台裏を取材しており、試合前に立てた作戦を伊達選手が実行できるかどうか、というの見所でした。残念ながら事前にたてた作戦を一般人が触れることはできないので、試合後の取材とコメントで戦略、戦術を理解することになります。

かなりボリュームがあるので、本日から複数回にわけて、日本フェドカップチームの作戦について触れます。
印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 17:52 | コメント(8)| トラックバック(0)

最も有名な試合 1980,81年全英男子シングルス決勝3

*参考:スマッシュ1981年9月号

1981年ウィンブルドン男子シングルス決勝
ビョン・ボルグ対ジョン・マッケンロー


前年、ボルグ対マッケンローがフルセットで、しかもマッチポイントとセットポイントが交互に繰り返される大激戦の後、トップスピンストローカーのボルグが5連覇を遂げました。

翌1981年も同じくボルグ対マッケンローの決勝となります。多くの人々が1年前の激戦を思い出し、そして特別な思いでこの決勝を観戦したと思います。そしてこの年も3時間22分の大激戦となりました。

マッケンローは、判定に文句をつける、暴言をはく、ラケットを投げるなど、その試合態度の悪さから「悪童」と名付けられていて、紳士なボルグと対照的でした。しかし、マッケンローはこのボルグとの試合に限っては、悪童ぶりを発揮せず、別人のような態度で試合に集中していました。

第1シード ボルグ
第2シード マッケンロー
第3シード コナーズ
第4シード レンドル

新たな時代への変化の兆しが見えています。
準決勝 ボルグ対コナーズ 0-6 4-6 6-3 6-0 6-4
準決勝 マッケンロー対フローリー スコア不明
フローリー戦でのマッケンローは暴言、悪態をつき、その蛮行から、当時チャールズ皇太子の婚約者ダイアナ・スペンサー嬢(後のダイアナ妃)は観客席から出たようです。

1981年マックとボルグ

決勝戦
第1セットはボルグ6-4 観客はボルグを応援します。
第2セットはマッケンロー7-6(7-1) マッケンローのサーブ&ボレーが冴えます。
第3セットはマッケンロー7-6(不明) 5-4ボルグリードをデュースゲームの攻防で凌ぐ。
第4セット マッケンロー6-4 ボルグが打つサーブに威力が落ちたようです。
マッケンロー 4-6 7-6 7-6 6-4 ボルグ

勝者マッケンローはとことんウィンブルドンから嫌われたようです。
ウィンブルドン104年の歴史で最も歓迎されないチャンピオンと記載されています。
・大会終了後のサボイホテルでのパーティー、そして優勝者スピーチ 欠席
・バッドマナーへのペナルティー1万ドル
・TVアナウンサー「最も憎まれた米国の若者が勝つとは歴史の最大の皮肉だ」
・オールイングランドクラブへの名誉会員入会凍結

そんなマッケンローですが、フレミングと組んでダブルスも優勝、単複制覇、偉大な選手です。

1981年マック
印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 10:31 | コメント(0)| トラックバック(0)

最も有名な試合 1980,81年全英男子シングルス決勝2

*参考:スマッシュ1980年9月号

1980年ウィンブルドン男子シングルス決勝
ビョン・ボルグ対ジョン・マッケンロー


この試合は、優雅でどちらかというと軟弱なスポーツと見られがちなテニスを、「ネットを挟んだボールの格闘技」であり、強靭なアスリートによる激しく厳しいスポーツという印象を日本人に与える試合でもありました。

ボルグは強靭な体力、脚力、そして強いトップスピンフォアハンド、クロスへ鋭角に抜くことができる両手打ちトップスピンを武器にしており、また、速いサーフェスでは強いフラットサーブを打ち込み、ネットにも出る選手でした。そして1980年はウィンブルドン5連覇がかかっていた年です。

マッケンローは、左利きからのサイドへ速く鋭く切れるスライスサーブ、その逆を攻めるフラットな、あるいは少し順回転のかかったサーブで、相手をコートの端へ追い出し、かつ柔軟なネットプレーは相手の予測を外す、特異なボレーをします。そしてストロークもタッチの良さを活かした、硬軟自在なスタイルで、真似することができない独自のスタイルでした。

第1シード ボルグ
第2シード マッケンロー
第3シード コナーズ
第4シード ゲルライテス

準決勝 マッケンロー対コナーズ 3時間5分の熱戦 6-3 3-6 6-3 6-4
準決勝 ボルグ対ゴットフリード 6-2 4-6 6-2 6-0

1980年ウィンブルドン男子BM対決

決勝は3時間53分の大熱戦、ウィンブルドン史上に残る試合と世界中に伝えられました。
第1セットはマッケンローのサーブ&ボレーが冴え6-1
第2セットはリターンエースをきっかけにボルグがサービスブレーク7-5
第3セットはボルグ6-3
そして有名な第4セットになります。
ボルグ5-4とリードしてボルグのマッチポイント、しかしマッケンローは凌ぎます。
そしてタイブレークに突入、マッチポイントとセットポイントが交錯する激戦。
マッケンローは7度のマッチポイントを逃れ、タイブレーク18-16で2セットオール。
第4セットの激戦が最終セットでも繰り広げられ、
そして最後にボルグの両手打ちバックハンドトップスピンのクロスパス。
ボルグ 1-6 7-5 6-3 6-7(16-18) 8-6 マッケンロー

最後のショットに王者ボルグの証が記されている、
たくさんの人々がテレビ観戦した、そんな1980年の大激戦でした。
ボルグ優勝
印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 21:11 | コメント(4)| トラックバック(0)

最も有名な試合 1980,81年全英男子シングルス決勝

1970年代後半から始まった世界的テニスブーム。
リターンの名手で速いテンポのゲーム展開をするジミー・コナーズ
トップスピン打法の代名詞、強靭な肉体、強い精神のビョン・ボルグ
そして1977年17歳で出現したサーブ&ボレーかつ戦術家、ジョン・マッケンロー
それぞれ強い個性を持つ3人を主役に、グランドスラムタイトルが争われます。
女子は美しく優雅な女王クリス・エバート・・・まさに女子テニスの見本。
そしてライバルであり、史上最強の女子選手となる選手、
パワー、テクニック、戦術に長けたオールラウンドなナブラチロワ

彼らスーパースターの魅力的なテニスに魅せられ、
ラケットを持ち歩く学生は非常に多く、街にはテニスブランドが溢れていました。

そんな時代にテニスブームを決定的にした最も有名な試合があります。
1980年ウィンブルドン男子シングルス決勝
ビョン・ボルグ対ジョン・マッケンロー
1981年ウィンブルドン男子シングルス決勝
ビヨン・ボルグ対ジョン・マッケンロー
この2年連続で実現した二人の激戦、多くの人がテレビで深夜まで釘付けとなり、
そして翌日の朝、人々の挨拶で交わされる話題は、二人の激戦でした。

この当時、3人の状況は、1974年以降世界NO.1を維持してきたコナーズが、
ボルグに勝てなくなり、NO.1の座はボルグに明け渡しています。
1979年全米初優勝でマッケンローは名目ともにトップ3入り、
やがてコナーズを追い落とす勢いがあり、次のターゲットはボルグでした。
ただし、コナーズとマッケンローの戦いは長期に渡り繰り広げられます。
左利きでリターン名手コナーズは、同じく左利きマッケンローのスライスサーブを
あまり苦にせず、経験や試合運びで上回ります。
この戦いはボルグがバーンアウトした後のテニス界の目玉のひとつでした。

次回日記は1980年決勝についてです。
是非見に来てください。
印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 10:48 | コメント(0)| トラックバック(0)

感動 王者フェデラーの戦いぶり

2008年ウィンブルドン男子シングルス決勝 フェデラーVSナダルをあらためて注意深く見てみました。それもほんのわずかの差で敗者となったフェデラー側にたって。
それで私にもわかったのです、この試合の本質が。

試合の前半に福井烈さんがナダル対策の核心をさらっと言ってます。
「いかに低い打点でうたせるか(エッグボールを打たせない)」
ただ、フェデラーはサービスで主導権をとらないと、なかなか低い打点に持ち込めない状況が続いていました。フェデラーはとにかくナダルとまともに打ち合っています。

私は他に方法があるのでは?と思い、さらに注意深くナダルを観察すると2つのことがわかりました。
フェデラーのバックハンドトップスピンもスライスも、ナダルは同じような威力で返す、すなわちフェデラーはスライスで適当につないで、ポジションを確保し、チャンスを待つことができるし、体力の消耗を減らすことができる。
チップショット(回転が多く、バウンドしても伸びず、止まってしまうような球)や死に球(同じくバウンドして伸びず止まる)をあまり上手く叩けない。

当然フェデラーは気がついているはずですが、スライスを多用したり、緩い球に持ち込む展開をせず、試合は激しい打ち合いのまま進んでいきます。

だんだんこの試合の意味がわかってきたのです。
フェデラーは全てを賭けて王の戦いを世界中に魅せているのだと。


アーサー・アッシュはロブを多用して王者コナーズを破りウィンブルドンチャンピオンとなったと当時の記事に書かれています。

しかしこの試合は真の王の試合、王が王として戦う試合だったのだと。

*鷹さん この試合のビデオ、ありがとうございました。歴史に残る一戦を最後までみることができました。
印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 12:18 | コメント(0)| トラックバック(0)

1982年、1983年フレンチオープン決勝2

・・・印象に残る試合 スマッシュが勝敗を左右・・・

前回【第1章 1982年フレンチオープン 男子シングルス決勝】では、ゲームをリードしていたビラスが、イージーなロブをスマッシュミスして、ゲームの流れが変わり、17歳のビランデルが優勝、一躍スターになったところで終わっています。話はその翌年1983年フレンチオープンになります。

【第2章 1983年フレンチオープン 男子シングルス決勝】
この年の決勝は、前年ビラスを破って初優勝したマッツ・ビランデルと、地元フランス期待の星、ヤニック・ノアという注目の対戦となりました。

マッツ・ビランデルはクレーコートでのストローク力を活かした強さだけではなく、威力のある1stサーブ、安定し、タッチのいいボレーを駆使し、オールラウンドなトッププレイヤーの片鱗を見せ始めていました。
ヤニック・ノアは、長身で非常にバネのある高い身体能力を活かしたサーブ、ネットプレイをベースに、やはりトップ選手の一人となっていました。

前年、1982年のフレンチオープンでは、ベスト4入りをかけビラスと対戦、ビラスの強くて重いトップスピンストロークに完全に打ち負けてしまいましたが、この年のノアは全く別人のプレーを見せたのです。
強く、安定したストロークでかつ持久力のあるビランデルに対して、ノアは非常に意外性のあるゲームプランで挑んだのです。

当時のフレンチオープンのクレー(アンツーカー)は、今よりも球足が遅く、強力なストロークを有するプレイヤーでなければ優勝は困難でした。普通に考えるとノアが優勝する可能性は低い、と多くの人が思ったのではないでしょうか(ノアのフォアハンドストロークは、回転過多で攻撃力、安定性で一段劣る)。その中でノアの武器は、スライス回転のかかる速い1stサーブ、鋭く高くキックするツイストサーブ、そして高い身体能力、これらでどれだけ頑張れるか・・・というところでしょうか。

試合が始まると、ノアの意外で異様なプレーが明らかになりました。
ノアは持ち前のサーブ力をベースに、ネットプレーで攻撃を組み立てました。
その中で特異で異様なプレーは2つあり、
1つは極端に弾まない、やや浅めのバックハンドスライスアプローチでした。
・・・連続写真を探したのですが見つからないので、当時のかすかな記憶を元に説明しますと・・・
フォアハンドのウェスタングリップで(フォアを打つ逆の面を使う)、極端にボールを引きつけ、上から下へラケットを引きおろす打ち方だったと思います。実際試すとわかるのですが、ボールの前に進む力はかなり弱く、回転ばかりかかります。
ボールがあまりにも弾まないので、ビランデルは特異のパッシングショットやトップスピンロブをうまく使えず、何とか上げたロブが、ノアの驚異的な垂直ジャンプによるスマッシュ(今で言うダンクスマッシュ)の餌食になり続け、試合はまるでヤニック・ノア・オン・ステージのようでした。この垂直ジャンプが2つ目の異様なプレーです。

少し脱線しますが、
*スマッシュ2008年5月号「テニスの超!基礎知識」の中でダンクスマッシュの記載があり、「サンプラスが始め、世に広めた」という記述がありますが、これは間違い!少なくとも1983年にヤニック・ノアが凄いダンクスマッシュを数々決めているのです。

本題に戻ります。
結局、試合は新クレーの王者ビランデルをノアがストレートで破り、何十年振りかのフランス人の優勝というフランスの熱狂の下、幕を閉じたのです。そのノアの後、地元フランスの熱狂とともに再びビランデルに決勝で挑んだのはアンリ・ルコント、1988年まで待つことになります。

私の友人達の間でも、ノアの不可解なバックハンドスライスを真似るのが流行りましたが、あの凄い垂直ジャンピングスマッシュは誰も真似できませんでした。当然ですが・・・

テニスクラシック1994年1月号 ノア サーブ連続写真ノアサーブ

印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 20:29 | コメント(2)| トラックバック(0)

1982年、1983年フレンチオープン決勝1

・・・印象に残る試合 スマッシュが勝敗を左右・・・
2008年ウィンブルドンの興奮冷めやらぬ今日ですが、話はいきなり26年前に遡ります。

【第1章 1982年フレンチオープン 男子シングルス決勝】
この年の決勝は、あのお方、そう、ギレルモ・ビラスVS突如現れた17歳の新鋭マッツ・ビランデルとなりました。
1977年~1979年頃はボルグ、コナーズ、ビラスがトップ3、1980年からはボルグ、マッケンロー、コナーズそれにレンドル、クレルクがトップ5を固め、ビラスはその次のグループで、やや下降線をたどっていました。
しかし1982年のビラスは著しく復調し、全仏前に、モンテカルロオープンなど確か5大会に優勝、ランキングを4位まで戻していました。
一方のビランデルは、雑誌に載るATPランクで60位台に「ウィランダー」なる名前で記述され、ほぼ無名の存在でした。

モモビラスはこの年、ギレルモ・ビラスが絶対優勝すると確信していました。その理由は2つ。
①ボルグが事実上引退していたこと。ビラスの全盛期(1977年前後)、ビラスが唯一クレーコートで勝てない相手がボルグでした。(ナダルが破ったビラスの連勝記録は1977年に達成したもの)
②この年の前半で、レンドル、コナーズなどに勝っていること。特に唯一の対抗馬、強打のレンドルにクレーコートで打ち勝って優勝していました。

大会が始まると、モモビラスの予想通りの展開になっていました。ギレルモ・ビラスは、翌年優勝するヤニック・ノアを全く相手にせず打ち勝つなど、楽勝で決勝まで進出しました。
もう片方のドローは大波乱の連続で、ビランデルがクレー強者のレンドル、クレルクを次々に破り、決勝まで進出してきたのです。ただこの時点で、ビラスの敵ではないと内心思っていました。

決勝戦は、第1セットから、強いトップスピンストロークの打ち合いで、消耗戦の様相を呈していました。しかし長い打ち合いの割りに、スコアは6-1でビラスが先取。第2セットも同じくトップスピンの打ち合いでしたが、ビランデルはフォアを厚めの当たりで打ち、ネットに出ることが多くなりました。当時はボルグ以外の誰もがビラスと延々打ち合うことを避けていました、体力に優れるビラスに優位になるからです。第2セットは6-6でタイブレークに突入、ビラスがポイントをリードしているとき、意外なことが起きたのです。

ビランデルが上げた浅いロブを、ビラスはスマッシュで強打しネットしてしまったのです。たぶん浅いロブなので、コートに叩きつけ、バックスタンドまで弾ませてしまおうとしたのだと思います。ビラスのスマッシュミスをそれまで見た記憶がありませんでした。これで明らかに流れが変わり、そのセットは7-6でビランデルがとり、以後6-0、6-4とビランデルが連取、ボルグに替わるスウェーデンの新スターが誕生したのでした。

新クレーの王者になったビランデルですが、その翌年、その新王者に予想外の展開が降りかかります。

旧クレーの王者ビラスは、結局フレンチオープンでは優勝1回(1977年)、準優勝3回(1975、1978、1982年)と控えめで、やはりボルグの存在が大きかったようです。
この続きは1982年、1983年フレンチオープン決勝2にて

写真は1982年フレンチオープンでのビラス・・・ピンボケですいません
ビラスバック
*テニスジャーナル1992年2月号
印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 20:58 | コメント(4)| トラックバック(0)

忘れられない一戦 ・・・ マッケンローVSサンドストローム

せっかくの土曜日、家族もいなく天気も悪いので、8年分たまったテニスエネルギーをパソコンにぶつけています。ブログネタ生産中です。

ところでモモビラスの大いなる勘違いのもととなった、忘れられない一戦のお話です。
体重が今の3分の2だった24年前、デビスカップの決勝は、アメリカ対スウェーデンでした。モモビラスがテレビで見た試合は、マッケンローVSサンドストローム。サンドストロームは、日本と対戦したデビスカップでも確か出場していて、少し気になる存在でした。
私の予感は当たりました。あの強いマッケンローが滅多打ちにされています。もの凄いファーストサーブをかろうじてマッケンローはリターンするのですが、その次にはこれまた凄いフォアハンド一発でしとめます。試合はサンドストロームのストレート勝ちでした。 ←デビスカップサイト
若かったモモビラスのテニス人生の道は決まりました。
「これが俺のテニスだ!」
誰も止めてくれる人はいません、周りの仲間も似たようなもんなんで。
印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 14:45 | コメント(0)| トラックバック(0)