tennis365.net テニス365ブログ 新着記事を読む ]    [ テニス365 ホームショッピングニュースログイン ]

テニス浦島太郎 8年ぶりにテニスをまたはじめた40代のおじさんです。最近のテニスの変貌ぶりに驚きつつも、いかに上達できるか、日記にしています。

<<  2008年 7月  >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最近のコメント
Have you r…
Jack 10/28 13:07
番中の定番!モンクレ…
モンクレール 10/27 09:35
Will I be …
Tony 10/27 08:26
Could I ha…
Sean 10/27 08:26
A few mont…
Genesis 10/23 23:50
最近の記事
プロスタッフ95 使…
11/22 11:36
イスラエル戦初日 観…
09/15 11:00
がんばれフェデラー!
07/08 21:56
ひじ痛、手首痛
07/06 10:27
先週は冴えなかった
07/03 08:56

1982年、1983年フレンチオープン決勝1

・・・印象に残る試合 スマッシュが勝敗を左右・・・
2008年ウィンブルドンの興奮冷めやらぬ今日ですが、話はいきなり26年前に遡ります。

【第1章 1982年フレンチオープン 男子シングルス決勝】
この年の決勝は、あのお方、そう、ギレルモ・ビラスVS突如現れた17歳の新鋭マッツ・ビランデルとなりました。
1977年~1979年頃はボルグ、コナーズ、ビラスがトップ3、1980年からはボルグ、マッケンロー、コナーズそれにレンドル、クレルクがトップ5を固め、ビラスはその次のグループで、やや下降線をたどっていました。
しかし1982年のビラスは著しく復調し、全仏前に、モンテカルロオープンなど確か5大会に優勝、ランキングを4位まで戻していました。
一方のビランデルは、雑誌に載るATPランクで60位台に「ウィランダー」なる名前で記述され、ほぼ無名の存在でした。

モモビラスはこの年、ギレルモ・ビラスが絶対優勝すると確信していました。その理由は2つ。
①ボルグが事実上引退していたこと。ビラスの全盛期(1977年前後)、ビラスが唯一クレーコートで勝てない相手がボルグでした。(ナダルが破ったビラスの連勝記録は1977年に達成したもの)
②この年の前半で、レンドル、コナーズなどに勝っていること。特に唯一の対抗馬、強打のレンドルにクレーコートで打ち勝って優勝していました。

大会が始まると、モモビラスの予想通りの展開になっていました。ギレルモ・ビラスは、翌年優勝するヤニック・ノアを全く相手にせず打ち勝つなど、楽勝で決勝まで進出しました。
もう片方のドローは大波乱の連続で、ビランデルがクレー強者のレンドル、クレルクを次々に破り、決勝まで進出してきたのです。ただこの時点で、ビラスの敵ではないと内心思っていました。

決勝戦は、第1セットから、強いトップスピンストロークの打ち合いで、消耗戦の様相を呈していました。しかし長い打ち合いの割りに、スコアは6-1でビラスが先取。第2セットも同じくトップスピンの打ち合いでしたが、ビランデルはフォアを厚めの当たりで打ち、ネットに出ることが多くなりました。当時はボルグ以外の誰もがビラスと延々打ち合うことを避けていました、体力に優れるビラスに優位になるからです。第2セットは6-6でタイブレークに突入、ビラスがポイントをリードしているとき、意外なことが起きたのです。

ビランデルが上げた浅いロブを、ビラスはスマッシュで強打しネットしてしまったのです。たぶん浅いロブなので、コートに叩きつけ、バックスタンドまで弾ませてしまおうとしたのだと思います。ビラスのスマッシュミスをそれまで見た記憶がありませんでした。これで明らかに流れが変わり、そのセットは7-6でビランデルがとり、以後6-0、6-4とビランデルが連取、ボルグに替わるスウェーデンの新スターが誕生したのでした。

新クレーの王者になったビランデルですが、その翌年、その新王者に予想外の展開が降りかかります。

旧クレーの王者ビラスは、結局フレンチオープンでは優勝1回(1977年)、準優勝3回(1975、1978、1982年)と控えめで、やはりボルグの存在が大きかったようです。
この続きは1982年、1983年フレンチオープン決勝2にて

写真は1982年フレンチオープンでのビラス・・・ピンボケですいません
ビラスバック
*テニスジャーナル1992年2月号
印象的な試合 | 投稿者 モモビラス 20:58 | コメント(4) | トラックバック(0)